このページでは、私たちの信仰上の立場を説明します。というのは、同じキリスト教でも聖典として採用する書巻の違い・聖書観や解釈の違いによって神学上の見解の相違があるからです。内輪の専門的な話なのであまり気にしていただく必要はないのですが、あなたが、このサイトと異なる説明に接した際に戸惑うことがないよう私たちの神学的立場を明確にしておきます。

注意とお願い

このあと書かれる説明には、私たちの立場を説明するため他の神学的立場を批判する内容があります。しかしこれは、その人たちの信仰を100%否定するというものではありません。なぜなら、他の立場の人たちも、イエス・キリストを救い主として信じたクリスチャンだからです。人が救われる条件というのは、①イエス・キリストが救い主として十字架にかかり、②死んで墓に葬られ、③3日目に神によって復活させられたという3項目を信じることです。これを信じている人はどの教理的立場にあろうと、同じ救いと聖霊を受けたキリストにある兄弟姉妹です。

もし、この3要素すら異なるのであれば私たちとは別物と言わざるを得ませんが、これを共有したうえでの教理の違いというのは、救いを受けた後の信仰の実践に関する部分ですから、あくまでも「仲間うちでの議論」ということになります。その点を踏まえたうえでこのあとの説明を読んでいただけたら幸いです。

福音派プロテスタント

私たちは福音派のプロテスタントです。プロテスタントはご存じだと思いますが、16世紀のルターやカルバンなどによる宗教改革によってローマカトリックから派生した宗派です。

福音派

福音派というのは、「リベラル派」の対になる言葉で、「聖書はすべて神の霊感を受けた、(原典において)誤りのない書物」だと信じるクリスチャンのグループで、聖書信仰の神学です。

福音主義と福音派の違い

キリスト教界で使われている神学用語は定義があいまいなものが多くこの言葉もそうです。時によってそれぞれの言葉の意味の幅が異なったり、二つの言葉が混同されている場合もあります。しかし、次の定義が一番わかりやすく実用的だと思うので、このサイトではこの意味で使います。

①福音主義

福音主義とは、簡単に言えばカトリックに対するプロテスタントを指す言葉です。中世のカトリックでは、聖書を恣意的に解釈し、実質的に聖書よりも教会に最終的な権威を置いていました。このローマカトリックの神学に異を唱え、宗教改革により誕生したのがプロテスタントです。このプロテスタントの諸教会が「教会主義」であったカトリックに対して、「聖書=(福音)を唯一の信仰の根拠とする」という主張を旗印としていたことから来る呼び名です。ほぼ「プロテスタント」と同義です。

②福音派

福音派とは、先に書いたように「聖書は神の霊感を受けた誤りのない書物」であると信じる聖書信仰の立場です。「自由主義神学」や「新正統主義神学」の立場をとる「リベラル派」と呼ばれるグループに対する言葉です。

ディスペンセーション主義

ディスペンセーション神学

私たちはディスペンセーション主義の立場をとります。ディスペンセーションという単語を辞書で引くと、「施すこと、分配、分配品、施し物、天の配剤、(神の)摂理、統治、制度、体制、特免」(weblio辞書)という言葉が出てきます。キリスト教におけるディスペンセーション主義というのは、「歴史の流れにおいて、神の人類に対する取扱いが時期により明確に区分される」という神学的主張です。一般的にこのディスペンセーションは7つに区分されると考えられています。

「取り扱い」というのは分かりやすく言うと、神の人間に対する「方針」とか「施策」といったことです。これには神から人間に対する命令(要求)と約束が含まれます。人間の側にはこの命令に従う義務(責任)が生じます。この神の命令と人間の応答する義務には、神の人類に対するテストという一面があります。結果的に人間はどのディスペンセーションにおいても神の命令(課題)をクリアできずに失敗し次のディスペンセーションに移行します。

ディスペンセーション移行の例

エデンの園でアダムは、子孫を増やすこと、地を管理すること、地の草や木の実を食べていいが「善悪の知識の木の実」だけは食べてはいけないという命令を受けました。しかし、彼は善悪の知識の木の実を食べてしまいました。アダムは試験に落ちたのです。これによりこのディスペンセーション(無垢の時代)は終わり次のディスペンセーション(良心の時代)に移行しました。

時代が変わると神はすぐ、二人に革の衣を着せました。これには二つの意味があります。「衣を着せる」というのは、「罪を覆う」という意味があります。前の時代にはなかった「罪からの救済策」が与えられたのです。もう一つの意味は、「罪から救われるには犠牲の血による贖いが必要」だということです。革の衣を作るには動物を殺し皮を剥がなくてはなりません。

無垢の時代の神の人間に対する取扱いは、楽園という環境の中での軽い労働と、唯一の禁止事項を除く自由、神や人との十全なコミュニケーションでした。対して良心の時代におけるそれは、環境的には、厳しい自然環境、きつい労働、苦痛を伴う出産、神とのつながりの断絶、人間関係の悪化、罪を犯したときは動物の犠牲を捧げるという義務の付与です。

そのような中で人に与えられた指針(命令)は「良心に従って生きる」ことです。この時はまだ具体的な道徳に関する命令は出されていません。善悪の知識の木によって悪を知ってしまった人間の心には常に善と悪の葛藤が生じるようになりました。その中で自分をコントロールし、良心に従うこと、そしてもし失敗してしまったときには反省して動物の犠牲を捧げ、神に許しを請うことがこの時代の人びとの責任となりました。しかし、これも守られず、ノアの洪水によるリセットを経てさらに次のディスペンセーションに移行しました。

ディスペンセーション主義に対置される「契約神学」

ディスペンセーション主義に対置される主張に「契約神学」があります。これは、神の計画の中心、あるいは聖書が伝えるメインテーマを「人類の救い」であると措定し、それに基づいて神学を立て、その神学を通して聖書を演繹的に解釈する神学体系です。

聖書の字義的で厳密な釈義(解釈)そのものを体系化した神学ではなく、神学的思索の結論を神学としたものなので、ディスペンセーション神学と較べて聖書的根拠は弱くなります。また、聖書を字義通りに読めば人類の救い以外のテーマも書かれているのですが、それらを「人類の救い」という単一のテーマに無理に押し込めるために解釈に無理が生じたり、ある部分を無視したりします

もちろんこれはディスペンセーション側からの主張であり、契約神学側には別の見解があると思います。ただ、やはり私は契約神学は正確な神学ではないと考えています。なぜなら、契約神学は、聖書が元来持っているヘブル(ユダヤ)的視点が抜け落ちた神学だからです。ですので、私たちは契約神学の立場ではありません。

教会がヘブル的視点を失っていった過程

新約聖書、あるいはキリスト教は、旧約聖書を土台としています。旧約聖書はヘブル的文化の中でヘブル人によって書かれ、解釈され、理解されてきました。イエス・キリストも十二使徒もすべてユダヤ人で、ヘブル的旧約聖書理解の上に立ってキリスト教を語っていました。新約聖書の記者もすべて、もしくは一人を除きユダヤ人です。初期のクリスチャンもほとんどがユダヤ人でした。その後、異邦人伝道が始まると、ユダヤ人とは事情が異なる異邦人への対応が検討されるようになりました。

①エルサレム滅亡

聖書には、教会はユダヤ人と異邦人がひとつになって作られる「新しいひとりの人」であると書かれています。教会の発生当初はこの方向に進んでいたと思われます。しかし、それが次第に変わっていってしまいました。その大きなきっかけが、西暦70年にエルサレムがローマ軍に滅ぼされてしまったことです。ユダヤ人は世界に離散し、エルサレム教会も消滅してしまいました。 

参考⇒ ユダヤ戦争  エルサレム攻囲戦

②キリスト教は異邦人のものへ

その後キリスト教の中心は今のトルコやヨーロッパに移り、教会は「異邦人のもの」になっていきました。その結果キリスト教のヘブル的視点が失われていったのです。最初のころはヘブル的視点も伝えられていたかもしれませんが、異邦人教会からすれば、ユダヤの伝統や文化など自分たちの信仰や伝道には関係がないし、そもそもわからないので次第に無視されていったのでしょう。彼らには(異邦人)教会こそがキリスト教のすべてとなっていったのです。

異邦人教会がキリスト教のすべてならば、当然聖書のすべての関心は異邦人教会に向けられていると考えることになります。このようにして、ユダヤ性も、救い以外の重要テーマも忘れた契約神学が生まれたのだと私は思っています。

③異邦人教会はなぜ救いのみが聖書のテーマだと考えたのか

異邦人がなぜ救い以外を重要視しないのかというと、異邦人はイスラエル民族が持っていた聖書的文化の土台がないからです。イスラエルは、民族の歴史を聖書と共に歩んできました。聖書は、民族との一体性の中で書かれました。そして、その前提の中で理解される内容が元々の聖書の意味でした。しかし、たとえそのような文化的土台や知識がなくても、イエス・キリストを信じれば「救い」という大きな価値は受けることができます。そのため理解や関心が薄い部分が除外されていき、神学的関心が自分たちに大切な「救い」に集中していったのだと推察しています。

しかしイスラエルは、もともと神を信仰し、仕えるために召された民族です。聖書は抽象的な神学である以前に、彼ら自身の歴史であり、神から直接受けた教えであり、命令であり、叱責であり、約束であり、未来に関する預言であったのです。つまり、旧約時代のイスラエルや、それを明確に土台にしていたイエス・キリストや初代教会は、「救い」という観念のフィルターを通して観るのではなく、聖書全てを直接自分に関わる「生の言葉」として受け取っていました。

一貫した字義的解釈

字義的解釈とは

私たちは聖書を一貫した字義的解釈により理解します。字義的解釈とは、書かれている文章を、意図的に意味を変えたり言葉を置き換えたりせずに素直に書かれている本来の意味を読み取ることです。その解釈の目的は「著者が伝えようとした意味を正確につかむ」ことです。これはつまり、聖書以外の文献を正確に解釈することと同じということです。

それなら、なぜわざわざ「字義的」などとことわるのかというと、そうでない解釈の仕方があるからです。それを「比ゆ的解釈」といいます。比ゆ的解釈というのは、聖書の中の奇跡や超自然的な現象、将来に関する預言の言葉などについて、素直に字義的に読めばそのままの意味であるにもかかわらず、何かの象徴として比ゆ的にとらえたり、イスラエルを教会に置き換えて読んだりする解釈法です。

比ゆ的解釈が起こる理由

奇跡や超自然的現象が信じられないため

人にはだれでも学んできた知識や経験に基づく「常識」があります。聖書には、海が左右に割れたり、処女から子供が生まれたりと、全ての人の常識を覆すようなエピソードがたくさんあります。常識に照らしてこれらのことは到底信じられないし、かといって聖書や神を否定したくないので、その調和をとるため自分の固定観念を変えるのではなく聖書の意味の方を変えます

ヘブル的視点を失いギリシャ化したため

初期キリスト教はユダヤ人中心でしたが、西暦70年にイスラエルが滅びたことにより、宣教の主戦場はギリシャ世界になりました。そのため、教会はギリシャ哲学の土台を持つ彼らに宣教するため、彼らとの共通言語となるギリシャ哲学を習得することが必要となりました。

このこと自体は何ら悪いことではなく、それどころか正しい努力です。日本にせよ他の国にせよ、それぞれの国の文脈の中で宣教の言葉が語られていくのは必要なことです。しかし教会は、ギリシャ哲学を説得しようとして半分説得されてしまいました。具体的・即物的なヘブル文化で書かれた聖書が、ギリシャ哲学の抽象的・思弁的解釈によって意味の変容が起きてしまったのです。そして、4世紀のアレクサンドリア学派と呼ばれる人たちによって聖書の比ゆ的解釈が確立されました。

近代主義、人間主義の影響

①自由主義神学

時代が下るに従い、世の中は聖書よりも人の理性を、神の権威や教えよりも個人の自由を重視するようになっていきました。17,8世紀に発生した啓蒙思想や、自然科学の発達などにより人間の理性に対する楽観的な信頼を置く潮流が生まれ、19世紀には、伝統的な価値観や考え方を否定し、新しい時代の理性や感覚を信頼しようとする近代主義が生まれました。そのような流れの影響を受けて19世紀の末ごろ生まれたのが自由主義神学です。

自由主義神学は、伝統的な解釈にこだわらずに、聖書に書かれている言葉を人間の理性によって「自由に」再解釈しようという立場です。ここまでくると、「神が教えてくれたことを学ぶ」という信仰の本質自体なくなり、「自分の考えをうまく聖書の言葉に当てはめる」という、「信仰とは別のゲーム」になってしまいます。「どんな考えを持つのも自由だけど、それなら別にキリスト教を名乗る必要ないじゃん」と私なら思います。

②新正統主義神学

もうひとつ、20世紀に誕生した神学的主張に「新正統主義」があります。これは、近代主義に対応して自由主義神学が生まれたのと同じように、ポストモダンの潮流に呼応して誕生した神学です。ポストモダンは日本でも30~40年前くらいに大流行し「脱構築」とか「スキゾキッズ」などという言葉がもてはやされました。

新正統主義は、言わば正統主義と自由主義の折衷案です。自由主義神学が伝統的解釈を否定しすぎて宗教的・超自然的なキリスト教の実質を失ってしまったため、その揺り戻しのような感じで神の超越性や、罪・恵み・救いなどの伝統的な概念を捉えなおそうとしました。しかし、自由主義神学の聖書批評学を取り入れていたので、聖書を神の言葉とは認めず「人間の神体験の証しを記した本」という見解です

正統主義神学のように、「聖書全体を通して神が人間に伝えたいメッセージを語っている」と考えるのではなく、「神は聖書を『人が神に出会う契機』として使う」と考えます。聖書を読んでいて、神が「今この人にこの言葉を語ろう」と思ったときに、その読んでいる言葉を通して神がその人の心で出会います。その時初めてその言葉が「神のことば」になるという考えです。

新正統主義の特徴は、聖書全体の体系的理解より個人の実存主義的な神体験を重視します。この思想は「自分らしさ」が好まれる現代にマッチするため人気があります。また、このように実存的、個人的に神と関係を持つのは非常に重要なことではあります。しかし、この神学の欠点は、聖書全体を通した、神の教えや計画の体系的理解を得られないことにあります。組織的な教えの理解と実存的な神との関係性は車の両輪です。片方だけに偏るのは、信者個人の生き方としてはまだ許容されるとしてもキリスト教全体を表す神学としては適切ではないと思います。

契約神学

前にも少し書きましたが、契約神学というのは「聖書の神は契約を結ぶ神である」という前提の下に、聖書全体を論理的に一貫した契約の概念によって把握し説明しようとする立場です。彼らは、聖書の中には「贖いの契約」「行いの契約」「恵みの契約」の3つの契約があると考えます。この契約は聖書に直接記述されているものではなく、神学的思索により「このような契約があるはずだ」と結論付けたものです。そのためこの契約は「神学的契約」と呼ばれます。3つの契約の内容は次の通りです。
※ 参考:神学的契約(契約神学)⇔ 聖書的契約(ディスペンセーション神学)

契約の名称契約の当事者契約を結んだ時期契約内容
行いの契約神とアダム天地創造時神の命令に従えばアダムの無罪性が確定し、永遠のいのちを得る
贖いの契約父なる神と子なる神永遠の昔・子なる神は信じる者に救いを与えるための贖いの業を行う
・父なる神は子なる神の贖いのための犠牲の死を受け入れる
恵みの契約父なる神と人信じたときイエス・キリストを信じるなら、贖いの契約で約束された救いを提供する
契約神学の3つの契約

上の表を見ていただけばわかる通り、契約神学の3つの契約はどれも人間の救いに関する契約です。聖書のすべてをこの3つの契約のフィルターを通して読むので聖書のどの個所も当然救いに関して書いてあると解釈してしまいます。しかし、実際には(字義的に読めば)聖書には人類の救い以外の神の計画も記されています(例えば、イスラエルに対する計画・天使に対する計画など)。それらもすべて3つの契約の文脈に無理やり押し込むので解釈に無理が生じ、それを正当化するためにさらに歪んできます。

契約神学では、救われる人(神学的には『神の民』といいます)のあり方は教会だけです。教会というのは建物のことではなく古今東西の救われた人の集合体です。聖書を字義的に読めば、教会というのはイエス・キリストが十字架で死んで復活して天に上ったあとに誕生したことは明白なのですが、契約神学では、「恵みの契約」という「教会的な救い」が唯一の救いのあり方ですから、本来教会がなかった旧約聖書の時代にも教会があったと主張します。そうでなければ、旧約時代には「神の民」は無かったということになってしまいます。そうすると、旧約時代にももちろん神を信じる「神の民」はいたのですから不具合が生じてしまいます。この問題の解決のために契約神学では、イスラエルと教会の同一視を行います。旧約時代はイスラエルが教会で、新約時代の教会は「霊的イスラエル」とか「新しいイスラエル」と位置付けます。

聖書には、破棄されることのないイスラエル民族に対する神の祝福の約束がたくさんあるのですが、旧約時代の教会であるイスラエルは、神に対する不従順によりそれを受け取るのに失敗したため、「新しいイスラエル」である新約時代の教会がその約束を受け継いだと契約神学は考えます。だから、新約時代においては、神の計画の中にイスラエル民族の特別性はなにもないというのが契約神学の教理です。

しかし、現実には聖書にはそのようなことは全く書かれいません。むしろ、旧約、新約ともに一貫して神がイスラエルに対して特別の計画を持っていることを語っています。イエス・キリスト自身や使徒たちも同様です。契約神学は、先に神学的命題を立ててそれに合わせて聖書解釈をするので、字義的解釈で不都合な点が出た場合につじつま合わせのために比ゆ的解釈をするのです。

ヘブル的視点

私たちはヘブル的視点から聖書を解釈します。これはただやみくもにそうしているのではなく、以下のような理由があります。

  1. 字義的解釈というものが著者の意図を目指すものであるため自ずとヘブル的に向かう
  2. 字義的解釈をするために背景や土台としてのヘブル的視点が必要になる
  3. 字義的解釈をした結果ヘブル的意味になる

つまり、ヘブル的視点というのはいくつも選択肢がある中で恣意的に選んだのではなく、聖書をそのまま、つまり字義通りに読めば当然そうなるものです。聖書はヘブル人が書いた本なのでヘブル的なのは当たり前の話ではあるのですが、ギリシャ化したり、背景を無視して自由に解釈したり、イスラエルと教会を意図的に読み替えたりなどして本来の意味から外れていく人たちへの対抗上このような言い方をします。

その他の神学的立場

カルバン主義

私たちは穏健なカルバン主義ですカルバン主義は、神の絶対的な主権を強調する立場で、アルミニウス主義と対をなします。その特徴は、英語の頭文字をとって”TULIP”と呼ばれる次の5項目に現わされています。詳しくは各リンクを参照してください。

  • 全的堕落(Total depravity) – 堕落後の人間はすべて全的に腐敗しており、自らの意志で神に仕えることを選び取れない。
  • 無条件的選び(Unconditional election) – は無条件に特定の人間を救いに、特定の人間を破滅に選んでいる(予定説
  • 制限的・限定的贖罪(Limited atonement) – キリストの贖いは、救いに選ばれた者だけのためにある
  • 不可抵抗的恩恵(Irresistible grace) – 予定された人間は、神の恵みを拒否することができない
  • 聖徒の堅忍(Perseverance of the saints) – いったん予定された人間は、最後まで堅く立って耐え忍び、必ず救われる

聖霊派について

聖霊派が主張する、現代における病の癒しなどの超自然的な神の奇跡については、あると信じます。しかし私たちは、奇跡をことさら重視したり追求する立場ではありません。また、極論に走ったり、体験主義的になりすぎて聖書を軽視する人たちには反対します。

神学的立場まとめ

私たち対抗
プロテスタントカトリック
福音派リベラル派
字義的解釈比ゆ的解釈
ディスペンセーション主義契約神学
聖書的契約神学的契約
ヘブル的視点ギリシャ(異邦人)的視点
正統主義自由主義、新正統主義

これまでいろいろなキリスト教用語が出てきて頭の中が整理できてない人もいるかと思います。ですので、ここまで書いてきた、私たちの神学的立場を表す言葉と対抗的な立場の言葉を表にまとめました。左側がわたしたちの立場、右側が対立的な立場です。

「対抗」とか「反対」という言葉を多用したため、戦争のような大ゲンカをしているように感じた方も少なくないと思いますが、実際は必ずしもそうではありません。激しい言い合いになるのは、あまり理解が深くない人が教会への忠誠心から攻撃する場合や、理解されないもどかしさから感情が激してしまう場合が多いように思います。

神学的に違う部分についてよくよく考えてみると、正反対のようでかなりの部分似ていると思うことが良くあります。80~90%くらいは同じことを言っていて残りの部分だけが違うというように。「それなら、そんな細かいことにこだわらずに調整しちゃえばいいじゃん」と思う人もいると思いますが、そうもいかないのが神学の難しいところです。

とにかく、一応このような違いあある事を知っておいていただいて、なおかつ、それらの違いはお互いを分断するものではなく微妙なバランスをもつものであることを知っていただけたらよいと思います。長い文章をここまで読んでいただきありがとうございました。

自宅の前から見える景色です。群馬県甘楽郡下仁田町西野牧